2011/11/30

秋の空




 10月の最後の日に、ドレイ先生がトゥールーズを離れ寂しい気持ちでいたところへ、11月は1日の朝にもらった訃報で始まって、とっても辛い秋を過ごさなければならなかった。
 たしかに40歳を過ぎてから同年代の友人たちや親戚の訃報をもらうことが多くなり、そのたびに、なくしたモノゴトの大きさを噛み締めてはきたものの、そのたびに、なくさなければならなかったものに対して、自分にはなにかできなかったんだろうか、なにができたんだろうかという空しい気持ちとともに、なにもしなかったという結論に達して、失ったものの大きさや、亡くした人の大切さをやっぱり感じずにはいられないのだ。

 ヤスタカくんと最後に別れたのは、御殿山のホテルのロビーだった。東京でチョコレート屋さんのミーさんとお仕事したあとに、東京の友達と同窓会をするのが恒例になりつつあり、そのために一泊するホテルはいつもヤスタカくんが取ってくれた。彼がお勤めしていた会社の系列のホテルで「フランスに嫁に行ったいとこのダニエル」ということで安く予約してくれた。ホテルの隣のビルに会社があって、仕事が終わってから、いっしょに同窓会に行くためにホテルに迎えにきてくれた。

 その前の年にも、ヤスタカくんのおかげでわたしはそのホテルに泊まり、そこのロビーで別れたてーこさんは、次の年にそのホテルのロビーに来ることができなかった。くも膜下出血に持って行かれたから。「来年もここで会おうね」って約束したのに。

 「来年もまたホテル予約してね」と頼んで別れたヤスタカくんとは、次の年には会えなかった。ミーさんとのお仕事がなくなって、 そうそう日本に帰ることができなくなったので。でも、この夏休みに家族で帰国した時に、きっと東京で会えると思っていたら、彼は忙しくて同級生との飲み会に来ることができなかった。

 最後に御殿山をいっしょに歩いた冬に、彼は病気のおかあさんのことを心配していた。人の前で弱気を吐いたり、泣き言を言ったりすることが大嫌いだった彼は、フランスに行ってしまうわたしだったらと思ったのか、あるいは《いとこ》だから気を許したか、「悪かね〜こんな話し聴かせて〜。らしくなかどね」と言いながらも、いろんなことを話してくれた。かわいがっている妹さんのことは、本当に愛おしげに語った。高校時代に出逢ったある同級生のおかげで人生が大きく変わったと思っていることや、その友人に感謝していることなど、本人には素直に言えないことを、わたしに打ち明けてくれた。わたしもいろんなことを話した。もうすぐフランスに戻ってしまったら、しばらく会えなくなると思って、べらべら喋った。でもまたそのうち会えるんだからと思って、こんど会った時に気まずくなりそうなことは話さなかった。会った時にまた訊けばいいと思って、残しておいた質問だってちゃんとあった。こんど会った時に言ってあげればいいと思って、言ってあげなかったこともあった

 日本人の男性、特に鹿児島の同級生男子は、友人女子の身体に触れたり、褒めたりすることが下手で、苦手で、はずかしいらしい。でもヤスタカくんは別だった。彼は20数年ぶりに東京で大同窓会をやって再会した時に、みんなの前でわたしを抱きしめた。東京のど真ん中の混雑したバスの中で、わたしたちは大声で鹿児島弁で語り合い、彼はわたしの頭をぽんぽん叩いて、「エンドーさんってこんなに小さかったケ〜?」と楽しそうに言った。ある時の飲み会でわたしの隣に座って「身体が小さくて、おっぱいが大きい子が好き」とか言って、ほかの男子が申し訳なさそうにわたしを見た時、わたしは「女子の前で《おっぱい》とか言える男子は、同級生の中でそうはいないよ、アンタ」とか、「みんなが一瞬申し訳なさそうだったのはなぜだろう」などと、じつはおもしろがっていた。この楽しい《呑んかた》のことは一生忘れないだろうと思っていた。

 あの冬の寒い夜、わたしは赤いへんてこな帽子に黒いコートに茶色のブーツを履いていた。ヤスタカくんは彼の会社から出て来る黒いスーツの男性たちの中で、一人だけ、トレンチコートのような、サファリ・ベストのような、東京のビジネスマンにはぜんぜん見えない、アメリカ帰りみたいな、不思議な服を来ていた。それは茶色と灰色の中間のような色で、わたしの目線の高さに、コーヒーのシミが付いていた。シミのことは見て見ぬ振りをしたけど、いちおう「早くお嫁さんをもらいなさいよ」と、たぶんそんなことも言った。あの冬の寒い夜に彼は変な風邪を引いていたので、わたしはフランスに戻ってからもしばらくは、その風邪の心配をするメールを送り、春になると今度は彼が心を痛めていたおかあさんのことも心配で、おかあさんのことには触れないようにしながらも、「元気してる?」とか「ちゃんと食べてるの?」とかいうタイトルのメールを送りつづけた。

 そしてその春に「がんばるから、そんなに心配しなくてもいいよ」という言葉で締めくくられるメールがきた。長い沈黙のあと、やっときた返事だった。心配せずにはいられない内容だったので、わたしは心配し続けなければならなかった。そして彼は明らかにわたしが心配するのを申し訳なく思っていた。しつこいオンナは苦手なタイプだったんだろう。

 訃報をもらった時に、彼というサムライは、まるで自害して果てたように思えてならなかった。訃報にちゃんと病名が書いてあったけれども、でも、あれほど「自分を大事にしなさいよ」って言ったのに。。。と、心身ともに疲れていた彼を思って、ただただ悔しかった。「苦しみに溺れそうになったら相談するから」と言ったくせに、きっと「どうせ、エンドーさんに言ったって、仕方ない」と思ったんだろうと思って、ぶん殴ってやりたいぐらい腹が立った。自分を大切にしているふうには見えなかった彼の生活のことを思うと、あの明るい彼の暗い部分に、人知れず病魔が忍び入ったんだろうと思わずにはいられず、彼は自分で命を縮めたんだと残念でたまらない。ずっと戦い続けてきた彼は、戦うことを諦めたんじゃないだろうか。苦しくもがいていた彼を知っていて、なにもしなかったものに、友達だったと言えるんだろうか。

 11月はとっても辛い気持ちで毎日が重かったのに、日は昇り、日は沈む。いつもの年よりも、空が青くて高かく、いつまでも暖かい日が続いて、世間は平和そのものだった。毎日が、いつものように過ぎ去る。ここにはだれもいない。生きていてもそばにはいてもらえないし、逝ってしまっても、本当なのかどうなのか現実味がない。もしわたしが死んでも誰にもわからない。彼が息を引き取ったときに、わたしにはなにも聴こえなかったのと同じだ。

 この前の同窓会で、ヤスタカくんには会えなかった。今度帰った時は、「また空港まで迎えに行くよ」って、電話があるかもしれない。本当は、あの訃報は、なにかだれかのふざけた冗談で、「ごめん、残業で遅くなった」と言って、彼は頭を引っ掻きながら、飲み会に遅れてやって来るんじゃないだろうか。遅れた分を取り戻すように、大急ぎでわたしを抱きしめて、「エンドーさん、こんなに小さかったケ?」と言ってみんなを笑わせ、はずかしげもなく「会いたかったよ〜」とか言いながら、わたしの頭をぽんぽん叩き、ビールを飲んで「エンドーさん、この前会った時よりおっぱいが大きくなって、自分の好みにぴったり」とかバカでうれしいことを言うんじゃないだろうか。もしかしたら今年の夏と同じで、こんど同窓会に行った時にも会えないのは、いつものように仕事が忙しいからっていうだけなんじゃないだろうか。

 ヤスタカくんのことを、想う。これまでと同じように、遠くから、想う。
 彼は楽になったんだろうかと、空を仰ぐ。


 またどこかで会えるだろう。その時には、わたしの方がきつく抱きしめてあげよう。そして彼の肩辺りをぽんぽん叩いてあげるのだ。



高校の時に観覧車の中でいっしょに撮った写真を懐かしんで、同じポーズをとってみた。。。ところ(2007年)


ヤスタカくんが大好きだった人が撮って、わたしにくれた写真。
ずっと覚えていたいのはこんなヤスタカくん。

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