2009/05/07

大変なことになった!!

 トゥールーズの剣道講習会で、すぐに疲れる人や、迫力のある打ちのできる人が少ないという話しから、呼吸の仕方にも問題があるということになった。相手が出て来ようとするまさにその時、その先(せん)を狙って、相手より先に打ち込むのが剣道だと、確かに故・佐藤先生に教わった。相手が出て来ようとする瞬間というのは、相手の気迫、息、呼吸からも読み取ることができるというのだ。
 とにかく、何時間も走り回るには、呼吸をコントロールできることは重要なので、まずは呼吸を整える練習をしましょうということになり、先生が個人的に「臍下丹田(せいかたんでん)呼吸法」なるものを伝授してくださった。

1)二秒で鼻から大きく息を吸い込む
2)二秒間息を止める
3)十五秒掛けてゆっくりと、薄く開いた口から息を吐く
4)吐き切ったところで二秒間息を止める。
5)二秒で鼻から息を吸う

1)から 4)がワンセットだ。
一番《力》が出るところは、4)と 5)の間だとおもう。息を吐ききって、もう吐けないというところで息を止める。そこで身体は酸素を欲していて、苦しい、苦しい、でも二秒間も息を止めとかなきゃならない。4)の最後あたりでエネルギーが爆発する。そこで打った面は、強く速いはずなのだ。

 この呼吸法は、研修会の合間の食事の時間に先生が個人的に教えてくれたので、ぜひみんなにも紹介しようと思って、剣道連盟のサイトでやっているディスカッションに、報告した。
 そうしたら、反響がものすごかった。
 
 呼吸について、呼吸と「切り返し」(という練習)の関係について。速さについて。瞬間について。呼吸と身体のぶれの関係について。呼吸と座禅の関係について。呼吸と武道の関係について。武道と気合いについて。気合いと精神について。精神と哲学と歴史と短歌と、禅と一休と孔子と。。。。。。。出る出る、ありとあらゆることが出る。

1)空気を吐いている瞬間(たとえば「ヤー」と叫んでいる瞬間)に打っているのか?
2)緊張して肩が上がるとき、どうすれば良いのか?
3)呼吸のことを考えながら稽古ができるのか?

こたえ
1)打つ、まさにその瞬間には、呼吸を一切していない。最も力を入れる瞬間息は止まっている。(高く遠くに飛ぶ瞬間、重いものを持ちあげる瞬間、出産の瞬間)
2)呼吸を整えればよい。大きく息を吸うと肩が下がり緊張がほぐれる。
3)あれこれ考えながら動けない。だから、普段から呼吸を自由にコントロールできるようにしておけば、自然にできるようになるのでは?

 そのようなもろもろのことが話し合われた。
ディスカッションを開いたわたしの所にも、どんどんメールがやって来る。
例えば「気合いはなんですか?」など。。。
剣道で「気合いを出せ」と言われる時は、声を張り上げて叫ばなければならない。気剣体一致といって、気合いと打ちと身体の動きがいっしょになった時に一本を認められるので、声も大切。それにはさらに「気合いを入れて」いる様子も表現しなくてはならない。 
 フランス人の中にはただ声を張り上げてるのが《気合い》と思っている人が多いので、恥ずかしげもなく「声の出し過ぎで疲れた」などという人もいる。そういう人には「気合い入れてやれよ」と言わなければならない。中には「気合い入れて集中してやってるんだから声を出さなくてもよいだろう」と思っている人もいる。確かに八段同士の立ち会いなどを見ると、もう気迫満々で見てるだけで疲れるほどで、八段の人はぎゃーぎゃー叫び回ったり、走り回ったりもしないから、「自分は先生の真似して声を出さない」などという人もいて、そういう人は「気合いを出せ」と叱られるのだ。つまり「声も出せ」ということで。八段じゃない人は(つまり経験がまだ30年ぐらいしかない人は)、やる気を出して、さらに叫び声もあげなきゃならないのが剣道なのだと思う。

 で、「気合いはどうやって出すか」と誰かが質問すれば、理屈っぽいフランス人は、精神を集中したら出るとか、やる気があれば出るもんだとか、答えのような答えじゃないようなことを言い始める。人によっては「おなかの下の方から思いっきり出すんだよ」と言ってもらいたがっているのに。
 うちのクラブのモニクさんはこう言った。
 「相手に向かっている時、緊張してるのか、興奮しているのか、なにかこうわき起こる怒りのような熱っぽいものが、おなかの下の方に集まって来て、それを吐き出したくなるんです。声を出したら、それが形になって外に出るみたい。声を出しながらこのエネルギーを爆発させるその瞬間に、わたしは打っていると思う。そのエネルギーーの塊と声が、いっしょになったのが、剣道の気合いだと思う」 

 いやあ、すごいなあ。初心者でそんなことがわかるなんて。まだ教えてなかったのに。

 そういうことなどを考えながら、もっと熱心に呼吸のことにも注意しながらまじめに剣道をやろうと思って稽古に臨んだが、結局稽古が終わってから、いつも通り、何も考えないで稽古をやってしまったことに気づくのだった。
 「いつもとは違う姿勢でやろうと思っていたのに、いつも通りだった」
とディスカッションに報告したら、
 「みのりさん、いつも通りはやめようと考えるのが、いつも通りっていうじゃないですか」
と言われた。確かに《いつも》「いつもと違う自分になろう」と思うのだが、《毎回》いつも通りで終わってしまって、また次の日には「いつも通りの自分じゃない自分になろう」と新しい決心をするのに、またいつもの自分で終わってしまう。なかなか《進化》しない。そういうことに気づくのこそ、大切かもしれないと思うのだが、進化していない自分に気づいてちょっとは進化しようと努力しなければ、結局《気づいた》だけで終わって、《進化》しなくてもったいない。

 フランス人と剣道をやると、とっても哲学な人間(?)になる。日本人ならみんな禅の心があって、平常心でいられると思われているので、とってもやりにくい。禅のぜの字も知らないんだってば。

 今日は、ネクトゥーさんと般若心経を唱え、食事して、剣道のつばぜり合いについて討論し、9年前のパリ大会での、佐藤彦四郎先生の居合いデモンストレーションと、八段同士の立ち会いのカセットを見た。
 五分ほどの長い攻め合いで、二人の身体が動いたのが見えたのはたった1回だった。動いていないようでも、ほんのちょっとずつじりじりと詰め寄って行っていたのだ。見ていて手に汗が出た。気迫が画面からでも感じられた。会場は静まり返っていた。たった1回、攻めにこらえられなくなって面に打ち出した佐藤先生に、胴に切り返されて、立ち会い終了となった。審判の楢崎先生が、「やめ」とおっしゃったあとに、天を仰いで立ち会いのすばらしさを噛み締めていらしたのが、とても印象的だった。楢崎先生のように九段ともなると、対等に立ち会いの相手の務まるひとに出会うことも難しいだろう。胴を取られた八段範師の佐藤先生が、立ち会いあとのインタビューで、「攻めが甘かった。まだまだ修行が足りない」とおっしゃった時、あの頃の佐藤先生を懐かしく思い出した。70年ちかくも、毎日毎日剣道の修行をした方が「修行が足りない。自分は未熟である」とおっしゃるのを聞くと、口ばかりで動かないのは最低だなあ〜と思うのだった。

 ネクトゥーさんが、「毎日みのりの幸せと健康と成功を祈りながらお経を唱えているよ」というので、ネクトゥーさんはいつまでもいつまでもキープしておかねばと思った。わたしのお守りだ。
 

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