2009/03/11

最後かもしれない




 ここ一年は何度も日本に帰国した。仕事をするためだったので、いちおう新しいコートを着て、安物なれども新しいアクセサリを身につけ、履き慣れない靴を履き、普段は滅多にしない化粧もして帰った。なので、おフランス帰りのみのりちゃんは、やけに華やかで、「成功されて。。。」などと言われ、行く先ざきでちやほやされた感がある。指宿にはおフランスから遊びに帰ってるんだから、そりゃあ、華やかである。でも、「まあ、遠くから帰ってらして、親孝行さんね」と言われると、穴に入りたくなる。
親孝行というのは、やったことがないからだ。

 日本に帰るたびに、日本の人に会うたびに、
「もう帰って来れないかもしれない。」「もう二度と会えないかもしれない」
と、本気で思う。だから、帰るたびに、どんな無理をしてでも、精一杯歩き回る。

 滅多に帰ることのなかったわたしなので、はじめは沢山の人が顔を見にきてくれた。何度か帰るうちに「またか」って感じの人もいる。電話してもメッセージを送っても答えてくれない人もいるし、もう会いたくないと、はっきりいう人もいる。
 でも、わたしには「もう会えないかもしれない」という焦りがあるので、「会いたくない」という人はいない。

 大分にどうしても会いたい人がいたので、鹿児島から大分に日帰りした。
朝の4時すぎに出る電車で鹿児島に行き、鹿児島から博多、そして博多から大分まで高速バスで。13時頃着いた。
遅いごはんを食べながら、沢山喋った。
本当に沢山喋ったけど、でも、何を話したということもなかった。
自分の話をしてる間に、あっという間に帰りのバスの時間が来てしまった。16時半ごろの高速バスで大分をあとにし、同じルートで曜日が変わってから自宅に着いた。

 翌日は、種子島に向かった。
指宿で一日一便の高速船に乗り遅れたので、鹿児島まで走って鹿児島で迷い、鹿児島からの船に二度乗り遅れた。高速船の待合所のテレビで、高校の時の先生を見た。英語の先生だったのに、今は、薩摩狂句の生放送をこなすらしい。ちょっとびっくりして、テレビの真下まで行き見入った。
 お昼すぎに種子島に着いた。入院しているおばに会い、脚の不自由なおばに会い、滅多に会えない従姉たちに会ってたくさん話をし、床に伏せている祖母の手を握った。

 おばと墓参りをした。
わたしの一番古い記憶の中に、もう一人の祖母が息を引き取った日の冷たい朝がある。そしてその記憶と重なるのが、祖母が体操座りで身を縮めている姿。冷たい朝のベッドの上に横たわる祖母の姿を思う時に、いつも、体操座りの祖母の姿も思い出す。
「どうしてだろう?」
おばに問いかけると、祖母が屈葬されていたことがわかった。樽状の棺(座棺)に入れるために、膝を抱えるように座っていれられたのだそうだ。そんなことが、まだ35年ぐらい前の種子島では行なわれていたのか。

 最後に父と別れた時、父はまだ生きていた。わたしが実家に居る数日の間に、息を引き取るんじゃないかと、みんな思っていたのに、まだちゃんと生きていた。予定の飛行機に乗る日が来て帰るとき、もう絶対に生きて会うことはないと思った。もうすぐ死ぬ、でも、生きてる父に送られて、わたしの方が先に実家をあとにしなければならなかった。父が「もう生きて会うことはないだろう」と思っているのかどうか、わたしにはわからなかった。

 父は、「もう会えないんだから、もっと居てくれ」とも、「行かないでくれ」とも、言わなかった。
わたしはそれまでに、なんども家を出たことがあって、そのたびに「もう帰らない」と思いながらも「行ってきます」と言って家を出たが、父は「いってらっしゃい」も「はやく帰って来いよ」も、一度も言ったことはなかった。

 父の顔を見るのは今度こそ最後だと思ったその朝に、わたしは「行ってきます」と言わなかった。
「わたし、行くから。また、どっかで会おうね」と言った。
そして、家を出るわたしに声を掛けたことなどなかった父が、はじめて応えた。
大きくうなづいて。

 たまに、父にそっくりな人とすれ違う。

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