2008/12/31

種子島、ロケットマラソンみたいな1にち



 種子島に最後に帰ったのは、春休みのロケットマラソンで10キロ走った時だった。種子島で春にマラソンっていうのは、とっても暑くて苦しかった覚えがある。もう20年以上も前のこと。

 父は種子島で生まれた。なので、わたしたちは長い休みのときには種子島に《里帰り》をした。みかばあが、畳の上の大きなベッドの上で息を引き取った日のこともちょっと覚えている。おじちゃんちには五右衛門風呂があって、板の間ん中に上手に飛び乗り、五右衛門風呂のなべの底にぶくぶく沈みながら、大きな声で数を数えた。ガジュマルにぶら下がって、従兄妹たちとかわいい魚屋さんの歌を歌った。

 ずっと種子島に帰りたいと思っていたが、4年前に家族で帰った時は、父の具合も悪く、種子島まで帰ることができなかった。その冬に、長姉の家族といっしょに父は人生で最後の里帰りを果たした。父の世代の親戚は、年老いて他界したり入院したりしていたし、インターネットもやっていなかったので、これまでもなかなか連絡が取れなかった。わたしにも余裕がなかったのだ。従兄たちのほとんどは島を離れてしまった。今はどうしているのか、わからない人もいる。従兄姉たちの新しい家族のことは、ぜんぜん知らない。自分の結婚式には来てもらったのに。結婚式で会った時には、おしゃべりなんかしてる暇がなかった。なんてことだろう。

 帰らないでいると、長く会わないでいると、すっかり忘れられてしまったのではないかと思って、どんどん連絡がとりにくくなる。それは指宿の人たちとも同じだった。去年から、仕事のおかげで帰国できる機会が続いた。それとは別に、インターネットのおかげで、思いがけず《繋がった》人たちが、ここ1・2年で急激に増え、《距離》は物理的なものではなく、気持ちの問題だったのだと、このごろ思えるようになった。インターネットはなくても手紙ぐらいは書けた筈なのだから。

 お金さえどうにかすれば、日本だっていつでも帰れるんだと、いまは思う。ミーさんとの仕事にしがみつかなくても、いつでも帰れるんだなと思う。

 「今度帰って来たら、種子島に行こうよ」と、言い出したのは母だった。父との思い出の場所で、ひと握りの親戚との不愉快な思い出もできてしまった場所なので、まさか母が率先して行く気になるとは思っていなかった。母はもちろん自分一人で行ったことはないし、車もないし、種子島のことを覚えてもいないわたしを案内できるのか、すごく心配していた。
 「とりあえず、ロケット基地には連れて行きたいんだ。あそこの博物館が立派だから。子供たちが喜ぶと思う」

 母は、すぐにホテルや高速船の予約をしてくれた。鹿児島の姉もずいぶん協力してくれたようだ。姉たちもいっしょに帰れたらよかったのに。

 母はホテルなどを予約したパック料金の中に、観光バスも含まれていると思っていたが、それには乗れなかった。路線バスで、種子島を縦断し、ホテルに荷物を預けたらそのまま宇宙センターの見学に出掛けた。博物館では子どもたちは楽しそうに遊び回り、予定外だったが、宇宙センター基地内の周遊バスにも乗ることができて、本物のロケットも見た。

 翌日は、ホテルのロビーでレンタカーを頼み、今度はあちこちの観光スポットを見て回りながら、反対方向に種子島を北上することに決めた。
 ホテルに来る途中で、路線バスの中から、《住吉》という停留所を見ていた。そこがきっと《住吉のおばちゃん》の家のあるところに違いないと、見当がついていた。主要道路の途中だから、あそこまでは問題なく行ける。遠くに見える風景にも、見覚えがあった。おばちゃんの家で覚えているのは、海の水に浸かるガジュマルの歩道と、大きな玄関だけだ。近所に何があったかは覚えていない。そばまできてから、むりやり母に電話をさせて、おばちゃんの家までたどり着くことができた。今の世の中、携帯電話というものがあって、素晴らしい。

 脚の悪いおばちゃんを外に連れ出して、埋め立てられて姿を変えた《岩の海岸》の公園で、記念撮影をした。ガジュマルはそこここに根を伸ばしていて、子どもたちはあの頃わたしがやっていたようにガジュマルによじ上ろうとしていた。

 そこではずみをつけた母は、一気に墓参りまでやるといいだした。リュージ兄ちゃんのうちに挨拶して、モリミおばちゃんのお見舞いをしてからフミばあちゃんの家に行って、最後にテツロー兄さんの漁港にも行こうと言う。途中、種子島港のそばで幕の内弁当を食べて、なんども「もう来ることもないだろうから」と涙を浮かべてはいたが、わたしはこれで弾みがついて、帰国のたびに種子島まで帰ってくるよと心に誓った。ここまで帰って来ないとわたしの里帰りは完了できないことが、身体でわかった。

 一番喜んでいたのはフミばあちゃんで、モリミおばちゃんで、住吉のヨシコおばちゃんだったのかもしれないし、母とわたしだったのかもしれないが、わたしにはJPとノエミとゾエだったのではないかと思う。フランスに帰って来てから、日本で一番多く撮った種子島での写真を、人々に見せながら、種子島で会った親戚について、そして、種子島がどんなに美しかったかについて、わたしよりも熱く語る。
 種子島港で、船が出る直前に、走ってやって来たべつな従兄を見て、従兄が挨拶をする前にJPが、「あ、従兄が来た。いずみ姉さんに瓜二つだ」と笑った。この従兄は、母がたの指宿の従兄で、種子島の親戚とは違うのだが、今は種子島に単身赴任しているマモル兄ちゃん。

 翌日、種子島でもらった巨大やりイカを刺身にして、指宿の親戚たちと宴会をした。集まる指宿の親戚たちを見ながら、JPが「あ、この人はマモルさんの兄弟ですね」と笑う。やりイカとマモル兄ちゃんのおかげで、種子島がぐっと近づいた。宴会に続く数日のあいだには、鹿児島に来ている種子島の従姉たちとも、会ったり電話で話したりすることができ、JPもとっても喜んでいた。一人の従姉の息子さんには会ったことがないが、イタリア人のおともだちいるそうで、その辺りでまた「イタリアに来る時にはフランスまで来てね」というはなしが出る。JPのお母さんは半分イタリア人なので、イタリア人を連れた日本の親戚が遊びに来てくれたら、こっちでも大宴会となるだろう。

わたしは写真の父の歳を越えた。岩肌はあれ以来風化したのかもしれないが、遠目には「ぜんぜん変わってない」だった。

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