2008/06/09

その瞬間

  数年前のこと。
 JPが、わたしの居合刀を修理している最中に、カッターで指を切った。その様子を見ていた。切った瞬間に、JPは息を呑んでそのまま指を口に突っ込んだ。わたしの「大丈夫?」に目玉だけで相づちを打ってから、立ち上がって台所に行った。指の血を洗い流すつもりだったのだと思う。指を口から引っこ抜いた途端に、血がシューと弧を描いて台所の壁に飛び散った。口に突っ込んでいた指から、どんどん血が流れていたらしく、吐いた血がシンクの中で真っ赤に広がっていた。
 そのあと両手でシンクをつかんだJPの頭が、グラッグラッと二回転したかと思ったら、狭い台所で1メートル85センチの大男が、どさーっと倒れた。JPの眼鏡が2時の方角に飛び去り、頭が2回タイルの床にバウンドした。ボールみたいだった。
 
  
  数ヶ月前のこと。
 雨の日の道路で、運転していた自動車がスリップして、大きなカーブで、ぐるんぐるんと2回転ぐらいして止まった。タイヤがつるっと滑った瞬間、両方の目玉をこの場所に置いたまま、脳みそが、左のほうにずるっとずれたような気分がして、なんとも気持ち悪かった。車が止まってからも、目玉が、なかなか自分の所に戻って来なかったので、一体自分がどこで何をしているのか、よくわからなかった。
 後ろには5.6台の車がクラクションも鳴らさず、じっとして動かず、わたしが走り出すのを辛抱強く待っていてくれた。真後ろの女性は、たぶん10センチぐらいの所にいたんじゃないかと思う。ブレーキをかけるのが上手な人でよかった。
  
  昨日のこと。
 交差点で信号が青に変わる瞬間を、この目で見ていた。前方から県外ナンバーの車が右折(相手にとっての左折)しようとしているのがわかった。ほんとうは前進するこちらが優先なので「こんにゃろ」と思いながらも、思いやり運転を心がけているわたしであるからして、譲る覚悟はできていた。けれども、寸でのところまでビビらしたろと思って、ゆっくり前進を続けた。相手は、とことん優先を守らない気だというのが見て取れ、「ゆるせんっ」と思った瞬間、わたしと同じように前進しようと、まっしぐらに出て来たバイクが、県外ナンバーに突っ込まれて、すっ飛んだ。バイクのお尻が、ぐしゃっと音を立てて踏みつぶされる、その瞬間を見た。乗っていた中学生ぐらいの少女がどうなったのかは、わたしからは見えなかった。

 第一目撃者のわたしは、真っ先に降りて行って、少女を助け起こさなければならなかったのかもしないのだが、赤信号で、バイクが踏んづけられるのを目の前で見た、向こう側の道路の人たちが、どやどやと降りて来て、少女とバイクと県外ナンバーを、道路脇に移動させた。わたしはただあんぐり口を開いて呆然と一連の騒ぎを眺めるばかりで、何もできなかった。

 そこはカーモーでも一番人通りの多い交差点で、そこにはカフェもあるので、テラスにいた人たちもわんさと集まって来た。少女は、飛んだ靴を自分で拾いに行って履き、ポケットから携帯電話を出して、誰かに電話した。県外ナンバーの男性は、信じられないぐらい冷静で、もしかしたら顔色が白くなっていたのかもしれないけど、もともと色の薄い白い肌に金髪の人だったので、顔色がいいのか悪いのかはわからなかった。
 男性の白い顔を見ながら、黒人の人たちって「顔色が悪いですね」とか「黄疸がでてますよ」とか言われることは、ないんだろうか?などと考えていた。

 とりあえず、少女が自分の脚で立ち上がったのを見て、交差点に集まっている野次馬たちが、自分の代わりに目撃者になってくれると思ったので、そのまま交差点を前進してうちに帰って来た。

 
 何かが目の前で起こる瞬間。そこに居る自分の分身が現れて、違う高さから自分を見ているんじゃないかと思う。どうでもいい些細な
風景を、結構覚えているような気がする。 
 JPは、そんな危ない瞬間があってもなくても、関係なく、もう一人の冷静な目を持った自分を持っている、ような気がする。ここ数週間、悩んでいたことが、彼のひとことできれいさっぱり解決した。いつも彼は、ひとことしか言わない。
 言われたその瞬間に、平和な顔をした自分が向こうに居るのが見えた。

Aucun commentaire: