2006/04/14

佐藤先生を求めて

 カーモーの出口と、アルビの出口で、大きな道路工事をしている。だからトゥールーズまで車で片道2時間以上掛かってしまった。90キロぐらいの距離だ。トゥールーズまでずっと、夕方の眩しい光を真っ正面に浴びて、しょぼしょぼする目で道路の白線を頼りに走る。高速道路は最低90km/hから最高120km/hまで出してもいい。高速に乗ってから、ガソリンが足りるかどうか心配になって来たので、ゆっくり走って行った。
 車はなんだか変な音を立てているし、先日左のバックミラーを当て逃げされて、ミラーはないし、そのうえフロントガラスは半年前からヒビが入ったままだし、おまけにトゥールーズ市内のことはよく知らない。なんで剣道なんぞのために、こんな命まで張って?と思いながらも、真っ赤な夕日が見渡すかぎりの菜の花畑に沈んで行くのを見るのは、とても気持ちよかった。

 木曜日の稽古は夜の9時から、金曜日は8時15分からだった。
 フランスに指導に来られる剣道の先生としては、とってもお若い40歳になったばかりの、佐藤先生という方が、トゥールーズのクラブの招待で、火曜日からいらしている。「センダイ出身です」とおっしゃるので、「北の?」と訊いたら「あなた鹿児島の人?」とバレてしまった。鹿児島県には『川内(せんだい)』という町がある。

 「福之上里美さんの時代です」と言ったら「じゃあ僕より一つ下だね」と歳までバレた。福之上里美さんという人は、私と同級生で、当時鹿児島県でいちばん強かった人だ。姉妹で全国チャンピオンだった人なので私の年代で剣道をしている人だったらみんな知っている。その福之上さんと、高校最後の県大会の三回戦で試合をしたことがある。私は一回戦でまぐれで勝って、二回戦で相手が欠席のため不戦勝、三回戦で偶然福之上さんに当った。すらりと背の高い人だったのを覚えている。ブンッと体当たりされて、ぽーんと飛ばされ、床に大の字に寝た覚えもある。福之上さんが走りよってその手を貸して起こしてくれた。本当は倒れた相手を打ってもいいのに。
 
 この試合はたぶん一生忘れない。福之上さんと対戦して一本勝ちに抑えたからだけではない。この試合には、私にとってはじめての応援団が来ていたのだ。

 高三の始業式当日に大怪我をした父が、高校最後の年には入院したり、リハビリをしたりしていた。高三の一年間は、家族にとってはある意味で思い出に残る年となった。父がある日突然家に帰って来れなくなることについて、家族みんながはっとさせられた。いろんなことがあった。でも高校にも通い続けることができたし、クラブ活動も続けることができた。

 その高校最後の試合を、父が応援に来た。当時はまだとても仲良しだった、種子島のおじさんと一緒に。すらりと細い身体に柔道衣を着て、黒帯をきりりと締めた父の写真に「兄貴、いかすじゃないか」と墨で書いて残した、父の弟だ。
 父はまだふらふらする身体で、弟に支えられながら見に来た。県警の古い道場の、二階スタンドのまん中あたりで手を振っていた。そして三回戦まで行った娘が、チャンピオンと闘って、一本勝ちに抑えたのをおじに自慢していた。

 もう覚えていないと思っていたのに、病気で弱った細い声で父が、「あの試合は面白かったな」と懐かしそうに言ったのでびっくりした。

 今年は剣道の方はまじめにやっていなかったから、いきなり講習会なんかに行っても、筋肉痛で苦しむだけだろうとは思ったのだが、日本からいらっしゃる先生が《佐藤先生》というお名前だと知ってから、落ちつかなくなった。どうしても行かなければならないような気がした。今年はほかにも日本から先生方がいらしたのに、どの講習会にも行かなかったくせに。

 去年亡くなった恩師の佐藤先生が、私を呼んでいるような気がした。大好きな佐藤先生と稽古をしたトゥールーズの道場で、懐かしい仲間に会った。佐藤先生が弟と呼んでいた先輩も来ていて、「ああ、やっと洞穴から出て来たね」と言って私のことを抱きしめてくれた。みんな私を待っていてくれた。そのうえ《佐藤》という垂れを着けた先生が、正面で私を待ち構えていた。佐藤彦四郎先生に習ったことだけを考えて稽古をした。

 見学にいらしていた、居合の先生に「あなたきれいな面を打つね」と誉めていただいた。「佐藤先生に教えていただきました」と言った私の顔は、さぞ誇らしげだったろう。道場に、ちゃんと《わたしの佐藤先生》も戻って来てくださっていたのだろう。
そして「よしよし、みのりちゃん」と頭を振っていらしたに違いない。

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